海月の剣舞

鳥ヰヤキ

海月の剣舞

「レーヤは体は柔らかいのに、なんだか動きが硬いねぇ」


 おばあちゃんがそう呟いたのは、私が床板の上で大の字に寝転び、潮風を浴びているさなかだった。

 舞の練習を終え、汗だくになった体を清める為に軽く泳ぎ、そうして濡れた体をろくすっぽ乾かしもしないで、ごろんと横になっていた。陽を浴びている間は、まるで削り取られるように水気を奪われていくけれど、バナナの葉で出来た屋根や壁が日陰になって、ちょうど良く涼しい家の中では、穏やかにじっとりと、木板に水気を吸い取られていく感覚が心地いい。

 くたびれた体には、こうして陸に上がっていても、波に揺られている感覚が残っている。休息を求めつつ、未だ熱を残す筋肉とが、見えない波に抱かれている。

「……おばあちゃん、私」

 自分では、不安でいっぱいの、深刻な声を出したつもりだった。でも、今にして思えば、それは甘えた子どもの声色でしかなかった。

「自信ないよ」

「ふぅん」

 おばあちゃんは、まるきり全部分かっている、とでもいうように、小さく鼻を鳴らしただけだった。

 しばらくの間、足下の波の音と、家を支える大杭がキィキィいう音、それからおばあちゃんの手元で仕立て直されている、水の礼衣ドレスがサラサラと鳴る音だけが聞こえていた。

 薄目を開けて、ごろんと頭を転がす。

 おばあちゃんの、節くれ立って、陽に灼けすぎて艶やかな樹木のようになった指先が、銀の針を操りながら、輝く水の布地に、新たな光の筋を描いている。

 ――代々受け継がれ、今はお母さんから私へと継承される為に、大幅に造り直されている、特別なドレス。余った布地を肩に掛けるように垂らしたり、腰から伸びる可愛らしいリボンに仕立てたり。

 これを私が着るんだ、と思うと、どうしようもなくそわそわしてしまって、落ち着かない。


 私達一家は、巫女の一族だ。

 この海辺の村に代々暮らし、漁場の安全と暮らしの幸福とを、海の精霊様に祈祷する。

 ……とはいっても、基本的な生活は、他の村民達と変わらない。普通に、あくせく働いている。父と兄は鍛冶屋をしているし、私達女衆も、普段は魚を捌いて干す仕事や、素潜り漁や、果物の選別なんかを手伝っている。

 特別なのは、年に一度の、お祭りの日だけ。水辺に舞台を造り、その中で剣舞を奉納する、その日だけ。

 そして、それが一番大変で、目下の憂鬱となっているのだけれど……。


「…………」


 目を細め、おばあちゃんの針仕事を眺める。虫が葉を食むように、魚が卵を産むように、正確無比で無駄のない、その仕事ぶりを眺めるのが大好きだった。

 水の衣。水の糸。――正確には、もっとふさわしい名前があるのかもしれないけれど、透き通った水のように、高い透明度がありつつも、重なり合うことで光の反射と影が生まれ、それによって実態が見えるというこの不思議な布を、私達はそう呼び習わして親しんでいた。

 今の私達には、もう同じ素材を造ることができない。おばあちゃんよりももっと前の代の巫女達……本物の魔女であった彼女達が、特別な方法で育てた蚕の糸を、解けない魔法と共に織りあわせて、このドレスを造ったと伝えられている。

 サラサラ、サラサラ。衣擦れの音は、まるで森の中で聞く雨の音のようで。

 サラサラ、サラサラ。穏やかな眠りに、誘われてしまう……。


「レーヤ」

 おばあちゃんの声で、ハッと目を覚ました。私はむくりと起き上がる。頬に、木目の跡がついている。

「体に合わせるから、ほら、ここに立って……あぁ、お前真水で体を拭かずに上がったね。しょうがない子だねぇ……まぁいいさ。どのみち、海で着るんだからね……」

 軽く舌打ちをしつつも、おばあちゃんの声にはちっとも不機嫌な気配がない。おばあちゃんは、風のような人だった。時には強く当たるのに、全く痛くはなくて、いつもは穏やかで優しくて。

「おばあちゃん、私、舞が下手でしょう?」

「下手ではないさ。動きは堅いし、表情も突っ張ってるけどね」

「ねぇそれ、ダメだったことじゃないの」

「フン」

 おばあちゃんは、器用に古枝のような腕を回して、私の胴の大きさを測る。ちっとも成長の兆しのない胸を、薄い尻を、やせっぽちな足を、薄い爪先とを舐めるように眺める。

 美人で、豊かな体をした母さんとは、まるで違う私の肢体を、じろじろと見つめる。


「お前の為に打った剣だよ」

 兄がそう言って差し出したのは、白銀の刀身に、炎の灯りをちらちらと反射させた、片刃の短剣だった。

「う……わぁ」

 ここはちゃんと、わぁすごい、とか、とっても綺麗、とか、そういうことを言うべきだったのかもしれない。けれど私はこの剣を見て、「怖い」という気持ちが先に来てしまった。一見するとバナナの葉よりも薄く、軽いけれど、その鋭さは垂らした髪すら音も無く切ってしまいそうな程で、思わず息を呑む。

「なんだか……万が一、取り落としちゃったら、腕まですっぱり切れちゃいそう」

「ああ、切れるだろうな」

 なんてことを言うのだろう。私は、足の裏がスーッと冷たくなっていく感覚を味わった。兄は、私の青ざめた顔を無視して剣を持ち上げて、両面を翻して見たかと思えば、天井に向けて投げかけた。剣は、くるくると回転し、その度に室内の赤い光を受けて、風車のように瞬いた。

「失敗しなければいいんだ」

 刹那、剣は既に、兄の手の中に戻っていた。私は、跳ね上がる心臓を抑えながら、もはや逃げ出したい気分だった。

「……身重の母さんの代わりに、二年早く舞台に上がることになったのは、大変だとは思うが」

 パチン。燃えるように輝いていた刀身も、鞘に収められるとずっと大人しくなった。兄は、陽と炎とに炙られた褐色の瞼の下で、別の生き物のように鋭い栗色の目で、私を見つめた。

「頼んだぞ、レーヤ」

「…………」

 おずおずと、剣を受け取りつつ、私は返事が出来なかった。


 みんな、母の妊娠を喜んでいた。私だって、下にきょうだいが出来ることは、とても嬉しい。

 だけどみんな、私に「がんばれ」と言うばかりで、例年よりも二年も早くに巫女になる私を、いたわってはくれなかった。

(……いたわられたって、どうにもならないって、知っているけれど)

 目を伏せたまま、考え事をしていると、私の体を触りながらブツブツと呟かれる、おばあちゃんの独り言も耳に入らない。

(巫女になる年齢なんて、実際はまちまちで、状況によって簡単に左右されるものだって、わかってるけど)

 言い訳、不満、不安。そういったものが、泡のように心から溢れていく。

 私は、器用な子どもだったと思う。

 求められていることは、大抵、そつなくこなせた。幸い、動ける方だったし、泳ぎだって得意だった。何分間でも潜水していられたし、珊瑚礁の隙間に潜って、貝や海老を探すのだって上手かった。

 だけど、巫女、なんて。……海女じゃ、ダメだったのかな。

(私は、お母さんみたいに綺麗じゃないし……精霊様が、どんな方かも知らないし)

 そもそも、見たことすらなかったから。人間以外の、人間よりも高位の存在、というものを。

(……自信が……ないなぁ)

 スン、と鼻の奥が痛くなった。あぁダメだ、泣いちゃいそう。代わりに、奥歯を噛み締める。我慢しなきゃ。ちゃんと、やらなきゃ。


「…………」


 気づくと、おばあちゃんがジッと、私のことを見上げているのに気づいた。その眼差しが何故か真剣で、ドギマギしてしまう。私は何となく目元をこすって、なに? と、素知らぬ顔で尋ねた。

「……フッ」

 だけど、おばあちゃんはどういう訳か、吹き出しただけだった。呆気に取られて目を丸くした瞬間、背中をパンパンと叩かれた。皮と骨だけに見えて、誰よりも力強いおばあちゃんの掌は、私の背中の上で、何度も軽快に跳ね回った。

「いたっ、いたっ!」

「レーヤ。気が滅入っているなら一泳ぎしておいで。気ままに魚と遊んで、ついでに夕食に一品加えておくれよ。潮の娘よ!」

 カカカ、と笑う彼女に半ば押し出されるようにしながら、家の外に飛び出した。目を白黒させつつ、ぼんやりと前を向けば、もう、太陽も海へと帰る時刻だった。

 果実のように鮮やかな夕陽が、徐々に徐々に、赤黒く熟していく。そうして溶け始めた先端が、藍色の水面に広がっては、波に光の破片を投げかける。

 海の上に立てられた、大杭の先に浮かんだちっぽけな家々を結ぶ橋の上を、ぶらぶらと歩く。漁具を片付ける人々の声、遊ぶ子ども達の歓声。……みんな顔見知りで、みんな、今の私とは関わりなく、それぞれの日々を過ごす。

 私は、結局海には行かず、ただ橋の上に座って、両脚を投げ出していた。

 視線の先には、今まさに組まれている最中の、丸太の舞台がある――お祭りの日にだけ現われる祭壇。海の底の洞窟で、いつもは休まれているという精霊様を、地上にお迎えする為の大切な舞台であり、そして――

「……私、ちゃんと舞えるのかなぁ……」

 両手で、膝をぎゅっと掴む。

 トントン、カンカン……男衆が仕事をする音と、波の音とが、耳をくすぐる。




 ◆




「綺麗よ、レーヤ」

 母さんは、私に白く短い法衣を着付けた後、三つ編みをお団子にまとめた髪の上に花を一輪差して、そう、満足げに呟いた。

「……そう?」

 私も照れながら苦笑し、自分で自分の晴れ姿を不思議な気持ちで見下ろしてから……母さんの、膨らんだお腹をそっと撫でる。

「あたしの剣舞、みんなには見えないんだっけ……?」

「ええ。祭壇は閉じられて、中に入れるのは巫女と精霊様だけになるから。その分、好きなだけ踊ればいいのよ。全身全霊、自分の体と心の全てを、あの方に捧げるの」

 そう言った途端、母さんは長い両腕を伸ばして、軽くリズムを刻むように、くるりと回った。褐色の艶やかな皮膚が、真っ青な空の下で、トビウオのようにサッと光った。

 その、あまりに自然で、滑らかな挙動は、思わず見入ってしまう程に美しい。周りの男達も、若い娘さんも、みんな母を遠巻きに見ていた。けれど……。

「か、母さん! ダメ、今は踊っちゃ! 赤ちゃんがいるんだからっ!」

「ああ、そうだったね。でも、少しくらい……」

「いいから、いいからっ」

 びっくりした……。母さんは少し憮然とした顔で、腕組みをする。私が止めなかったら、きっと一曲分くらいは、平気で踊っていたに違いない。溜息を吐く私を、母さんは頭から爪先まで、じっと眺める。

 そうして、柔らかく微笑んだ。ぽんぽんと、私の肩を撫でる。

「がんばっておいでね。大丈夫、あんたはちゃんと成長したし、あの方は優しい……というか、とっても愉快なひとだから」

「えっ?」

 愉快、ゆかい? ……そんな人物評、想定すらしていなかった。私が呆然と面食らっていると、母さんは悪戯っぽくウィンクをした。

 そうだ、そもそも精霊様って、どんなひとなのだろう。何を気をつければいいのだろう。会話をすることはあるの? 男なの、女なの? どうしてこれまで訊かなかったのだろう……! 今になって、山ほどの質問が湧いてきた。

「か、母さん、あのっ……」

「レーヤ! こっちにおいで、早くドレスを!」

 おばあちゃんの怒声が響く。というかもう、腕が伸びてきてる。私は肩を掴まれて、そのままずるずると引っ張られていってしまう。

「大丈夫! 誠心誠意、踊るだけだよ! 怪我だけはしないようにねっ!」

「ま、待って母さん、待って……私……!」

 自信ないよ、母さん……!

 喉の先まで出かかった弱音は、母さんの明るい笑顔と、嬉しそうに振る両腕の動きに掻き消された。


 袖を通した水のドレスは、着ていることすら忘れてしまう程に軽い。まるで、風を纏っているかのようだ。ドレスに触れた空気は、にわかにひんやりとして、霧を浴びたように涼しい。

 裸足の爪先は、爪化粧で真珠色に輝いている。その脚で、いつもより綺麗に磨かれた橋の上を、舞台へ向かって歩き出す。

 心臓がバクバクする……という段階はとうに通り過ぎて、緊張のあまり背筋は凍え、冷たくなって、嫌な汗が止まらない。

 片手に持った剣は抜き身だ。夏の太陽を受けて、鏡のように燃えて光る。

 背中に、浜辺や橋上に集まる人々の手拍子や、賑やかな太鼓の音を聞く。だけどそれらはもう、波の音よりもずっと遠い。もう、村からは遙かに離れてしまったような気さえする。実際は、目と鼻の先なのに。

 やがて祭壇が、目の前に現われた。周辺の村々からも取り寄せた、色とりどりの花々で鮮やかに飾り付けられたそれは、まるで、それ自体が一つの生き物であるかのようだ。

 私は今から、この生き物の腹の中へ入っていくのだ。


「…………」


 息を整える暇もない。そんな手順は、組み込まれていない。

 私はその場に膝をつく。手拍子と太鼓とが、一斉に止まる。


「ナル村の新たなる巫女、レーヤ。参ります」


 そう、なるべく威厳を持って宣言する。まるで自分の声じゃないみたいに、それは夏空の高みにまで、朗々と響いた。

 だって、そうでなきゃ、自分に潰されそうだから。奮い立たなければ、今にも倒れてしまいそうだから。

 私は剣を掲げて、最後に村の方を振り返る。

 病人以外は、みんな外に出て集まってきていた。その幾つもの目が、期待を込めて、私を見ている。私もまた、彼らの眼差しを一つ一つ、見つめ返す。睨むように。

 そうして、踵を返し、天蓋を捲って、中へと潜り込んだ。


 舞台は、決して広くはない。建設と解体が簡易な方法で組まれ、四方を布で覆われた、テントのような建物だ。太陽や炎を苦手とするという精霊様の為に、内側には、光を遮る塗料が塗り込まれている。足下でピチャッと海水が波立つのは、普段は水中で暮らす精霊様になるべくご負担を掛けない為、薄く水が張ってあるから。

 ……そういうことは元々聞いていたから、きっと洞窟のように薄暗く、湿っぽい場所に違いないと思っていた。だから、足を踏み入れた瞬間、天蓋の内部にぶら下げられた魔法石が放つ、鮮やかな青い光がむしろ眩しくて、目を慣らす為に瞬きを繰り返した。

 太陽や月の光でも、炎の灯りでもなく、閉じ込められた魔力が放つ光に照らされた光景は、幽玄な仄明るさがあって、思わず感嘆を漏らしてしまう。

 けれど、もっと目を奪われたのは、鎮座なさる精霊様の――そのお姿だった。

 それは、物語に出てくるような、自然に溶け込み人々を導く、繊細で優美なものではなかった。

 超然的で不可思議で、煙のようだとされる霊的な存在、というのでもなかった。

 ……豪奢に織られた、大型のラタンの椅子の肘置きに、あろうことか足を乗せている。

 全身が半透明で、人間に似た姿をしているけれど、顔も頭もお腹も足も、全てがぷよぷよしていて捉えどころが無い。顔つきや体つきは男性的だから、彼……と呼んでいいのだろうか。彼は、そうした軟体動物的な肢体を投げ出しながら、周囲に積み重ねられたお供え物の果物の皮を、退屈そうに剥いでいた。

 あむ。と、歯も無い口で白い果肉をこそぎ落とすと、漏れた果汁が唇や顎をベタベタと濡らした。それを、当然のように長い舌で舐め取っていく。

 膝にも、足下にも、山のような果実を抱えている。それらを次から次へと、食べる。食べる。ひたすら、食べる。だらだらと。

 ……一言で言うと、

(だ……だらしない……!)

 そうとしか言い様がなく、思わず絶句してしまった。


「……あれ、踊らないの?」


 声を掛けられたことに、一瞬気がつかなかった。彼の声は、さざ波のように柔らかく、砂に溶け込むかのように静かに、耳の側を撫でていったから。

「あ……」

 返事も出来ずに呆然としていると、彼は突然、すっくと椅子の上に立ち上がった。そうして――私が、彼の脚だと思っていたものは、ほんの一部でしかなかったことを知った。

 ずるずる、ずるずる。水の中で何かが動く気配がある。ずるずる、ずるずる……引き網漁のような音と共に、水に紛れてのたうつものが、私の足下の側を通る。

「ひゃあっ……!?」

 慌てて脚を動かして後ずさると、立ち上がったあのお方の姿がよく見えた。

 ……海月クラゲ、だ。

 帽子のように被っているのは、楕円形の大きな傘。

 リボンのように肩や腰からぶら下がっているのは、長い触手。

 それらの長さには際限が無いらしく、伸びたり縮んだりしながら、もつれ合う糸のように水中を、空間を、好きなようにゆらゆらと揺れる。

 それが不意に、頬に触れようとした。瞬間、目が覚めたようになって、反射的に剣を構え、更に数歩後退した。

「ありゃ。俺の触手に毒があるって、もう聞いてた?」

「ど、毒……!?」

 聞いてない! 母さんもおばあちゃんも、そんなこと一言も言ってなかった! 私は半ば涙目になりつつ、椅子の上でニコニコと笑う彼を睨め上げる。

 人間ではない。動物でもない。彼は、私が一度たりとも遭遇したことのない、別種の生き物だった。

 屈託なく笑う姿は子どものようなのに、目線は、獰猛な獣のように鋭く、隙が無い。その瑠璃色の目が、私の視線に呼応するかのように、スッと細められる。

 今度、額に滲んだ汗は、緊張の汗ではなかった。

 ……とんでもなく危険な生き物に、命を狙われているという実感が、胸の奥から冷たく込み上げてきた。


「俺がこの近海を縄張りにすることで、お前達の村を護ってあげてるんだから。貢ぎ物は必須なわけだよ」

 彼は腕組みをして、勝手にうんうんと頷いている。腕、というのも何本もあって、どれがどれだか分からないけれど。

「美味しい果物、綺麗な花。そういうの、大好きだよ。どれも、深海には無いものだからね! でも俺って大食いだからさぁ……」

 膝を、ピチャピチャとさざ波が濡らす。ゾクッとした悪寒を感じた瞬間、勝手に脚が動いていた。

 波間に紛れて、触手の動きはよく見えない。けれど、水の動きは見える。

「デザートに、人間を食べたいなぁ。ねぇ、ねぇ、君! ぼうっとしてたら食べちゃうぞー!」


 ……最悪、だ!


 降りかかる触手を避ける。抱きつこうとする彼を避ける。

 そうして片脚を軸にして、さざ波に合わせるように動いていると――それが自然に、舞になった。

(舞は、奉納する為のものではなく、逃げる為のものだった! 剣は、命を守る為のものだった!)

 奥歯を嚙み、睨めつけるように透明な彼を見据えつつ、私は体に叩き込まれた動きを再現する。もう、私の意思というものは、気力という着火剤でしかない。

 筋肉が、心臓が、導くままに。踊る、踊る、踊る……!

「へぇっ! いい動きになってきたねぇ。ていうか、あれ、去年と違う人?」

「……か、母さんは、今、身重なの! だから、娘の、私が!」

「へぇ~~~。気づかなかった! 人間の顔って覚えられないな。でも、確かに、ちょっとちんちくりんになったというか……」

「ほっといてっ!」

 アハハ、と軽く笑いながらも、彼は私を抱きしめようとする。無論、それは男女のロマンス、とは全く違う。ひたすらに一方的な、捕食の為の行為。

 剣を差し向け、宙に滑らせる。空気が切られ、触手が跳ねる。

 身を落とし、反転する。上半身に触れようとした透明な腕が、宙を掻く。

 汗の粒が波間に落ちた。息が止まるような疲労感で、クラクラする。

 ……けれど、どこか嬉しい気持ちもあった。

 奇妙な昂揚が、私を突き動かしていた。

 彼には、私と母の区別がついていなかった。……顔も、姿も、彼の前では一切関係なく、ただ、人間の巫女がいるだけ。

 羨望も、期待も、ここには存在しない。観客も、責任も、何にもない。あるのは――

(情熱と、命。それだけ)

 ……それは、なんて身軽で美しいことなのだろう、と思った。


「――あっ」

 そうして、一瞬だけ、安心してしまったからだろうか。

 私の体が宙に浮いた。いや、そうではない。

 一瞬の目眩によって、バランスを崩して……倒れた、のだ。刹那の出来事なのに、何故か意識はハッキリしていて、体はどうにか体勢を整えようと力が入る。けれど理性では、もうどう動いても無駄だと分かっている。丁度、高く投げたばかりの剣が、青い光を浴びてキリキリと回転しているのが、視界の端に見える。

 触手の海。落ちる。毒。ダメだ。剣。掴めない。刺さる。ダメだ。

 ……死ぬ?

 不穏な、けれどそれ以外に考えられない計算式が浮かんだ頭から、そのまま重力に従って、倒れ込んだ。


「…………?」


 しかし、来るべき衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。思わず堅く閉じていた目を開ける。

 精霊様が、すぐ側に立っていた。

 近くで見る彼の目は、海の底の宝石のように深い青で、星の砂のように瞬いていた。

 傘の縁には、目には見えない屈折があり、それらは彼が小さく動く度に、虹のように輝いていた。

 ……思わず、見とれる。

 人間に似た顔をした、けれど人間よりもずっと純粋な、彼という自然の奇跡を前に、私はまともな思考を失っていた。

「人間って、ほんと体力ないよね」

 数分にも感じられたけど、きっと、ほんの刹那の出来事だったのだろう。彼は軽く溜息を吐いて、私をそっと座らせた。

 ……背中に回していた、触手の腕を下ろしながら。

「別に、倒れるのはいいけどさぁ。その後ぼんやりしちゃったら、興ざめなんだけどー?」

 不満そうにぷりぷりと怒りながら、彼はそう言い放つ。私は、しばらくの間ぼうっとしていた……けれど、すぐに先ほどの出来事を思い出し、青くなった。

「え、今、触手、ど、ど、毒……!」

 慌てて、自分の背中を撫でる。でも、もうとっくに手遅れかもしれない……! 脳裏に、海月に刺されて、真っ赤なミミズ腫れや、とんでもない炎症を起こした村人の姿が浮かんだ。でも、慌てふためく私を見下ろして、精霊様はただただ呆れているだけだった。

「……はぁ~。君、ほんとになんにも知らないんだね」

「なっ、なっ、なにがっ!? わ、私、し、し、死……」

「いや……その、水のドレス、っていうの? それ着てたら、俺の毒なんか効かないでしょ」


 ……へ?


 思わず、間抜けな声が出た。いや、もう。彼にしてみれば、全てが間抜けだったのかもしれないけれど。

「もっと前の君んの奴がさぁ~。俺の毒が危ないからってさ、耐毒の術式を組み込んだんだよ。だから触っても平気なんだけど、なんか君がビビってるのがおもしろくてさ……」

 つい、脅かしちゃった。軽く舌を出して、悪びれもせずに笑う彼に、私は呆気に取られるしかない。

「な、バッ……アッ……!」

 つい、精霊様に向けるべきではない暴言を吐きそうになった。それをなんとか飲み込む。さすがに巫女として、それだけはダメ……! 彼が、そこまで敬意を払うべき相手か、もうよくわからなくなってきたけど……!

「も……もう……! からかうのもいい加減にして!」

「だって君、他の君達よりもずっと真面目で、真剣で、おもしろいんだもん。なんだか、好きになっちゃった」

「そう、私は真面目に真剣に………………えっ!?」

 別種の彼は、価値観も精神性も、人間である私とは、全く異なっているのだろう。

 だからこうしてサラッと、とんでもないことも言ってのける。私だったら、もし万が一そう感じても、何年も胸に秘めてしまうであろう感情を、まるで当たり前のようにぶつけてしまう。

 ……いいや、きっと、そもそもその感情すら、私達の持つ尺度のものとは違うのだろう。

 だから、喜ぶなんておかしいのだ。私は巫女として、平然と構えるべきなのだ。

「エヘヘ、楽しいなぁ」

 だけど、へにゃりと笑った彼の顔を見たら、そんな衝撃も逡巡も推測も、全てが無意味で、勝手なものだったのだとわかって、どうでもよくなった。

 彼の笑顔は、まるでただの子どもみたいだったから。

 心から楽しげで、花の咲くような笑顔だったから。


「ほら、剣」

「あ、ありがとう……ねぇ、これ、刺さってない……?」

 受け取ろうとしたそれは、触手に掴まれているのではなく、直接触手に突き刺さっていた。それはもう、ざっくりと。

(こうして、突き刺さった剣を抜く勇者の童話を、小さい頃に聞いたことあるなぁ……)

 そう思いつつ、ずるりと剣を抜き取った。出血を心配したけれど、彼には元々血が通っていないのか、ほんの僅かな燐光のような光が散っただけで、傷跡すら残らずすぐに塞がった。彼自身、一切の痛みを感じていないようだった。その様子に、ほんの少し、ホッとする。

 ……きっと彼にとって、こうした私の心配や不安も、全部、些細なことなんだ。

 もしかしたら、精霊である彼から見ると、人間というのはあまりにも感情的すぎるのかもしれない。

 そう考えると、ただ遊びたいだけである子どもじみた彼の方が、怒ったり焦ったり心配したりと、いちいち一喜一憂する私よりも、ずっと大人びて見えた。

 ……それも、当然かも知れない。

 だって彼は、私よりも母さんよりもおばあちゃんよりも、それからずっと昔の祖先達よりも。

 ずっとずっと長生きで、ずっとずっと、私達を連綿と見守ってきたのだから。


「君、名前はなんていうの?」

「……レーヤ」

「ふぅん。レーヤ。レーヤかぁ……」

 剣舞のさなかにも、いつしか自然と会話が出来るようになっていた。

 水を蹴り、跳ねる。何か足下で踏んでしまっても、それは彼の脚であり、彼とリズムが合っただけなのだから、気にしない。

 肩を上げ、剣を回す。光を反射させる鏡片のように操り、風を作る。その軌道を追うように、彼の触手も一緒に舞う。

 精霊様は、普段、深海で暮らしていらっしゃると聞いた。深海は、音も光も無く、命あるもの一つ一つが遠くて、冷たい、過酷な世界なのだという。

 だからこうして地上に出る、数少ない日を、彼自身が誰よりも楽しみにして、無邪気に楽しんでいるのだろう。


 巫女の剣舞とは、彼と繋がる為のものではなく、また、相争い、牽制する為のものでもなかった。

 ただ、彼を楽しませ、また、同時に楽しむ為のものだった。

『誠心誠意、踊るだけだよ!』

 母さんがそう言って、笑顔で送り出したのは、そういう意味だったのだろう。

 自信なんか関係ない。ただ、この生命の躍動を、生き生きとして見せること。

 全身を魂の光で火照らせ、生命の喜びを伝えること。

 それが、私達の剣舞だった。

「ねぇ、貴方の名前は……?」

「俺? ……俺に名前なんか、無いよ」

 するり、と彼は宙を、まるで水中そのもののように、自由に泳ぐ。本体である胴に従うように、七色の光を明滅させる長い触手が、マントのようにたなびいている。

 私も、彼と向かい合う為に、脚を軸にして回転した。その肩を、水のドレスが優しく叩いた。

「俺は精霊。ただの精霊。……君達を護る、ちっぽけな海月の精霊だよ」

 そう言って、彼はまた笑った。なんてたくさん、笑うひとなのだろう。私も、反射的に、にこりと笑った。

 ここに来てはじめての、自然に浮かんだ笑顔だった。


「あー、楽しかった。今年も人間は食べられなかったけど、来年の楽しみに取っておくかぁ!」

 気づくと、私達は大の字になって、床の上に倒れ込んでいた。彼は機嫌良く笑っていたけれど、私は疲れ切ってくたくたで、胸を上下に激しく弾ませていた。

 乱れた髪が、薄く張った水の中で揺れている。母さんが差してくれた花も、とうに散ってしまっただろう。私は、口元に触れるのが、潮の味なのか、後から後から湧き出る汗なのかも、分からなくなっていた。

「レーヤ、ほら」

 ヒュッ、と風を切る音に合わせて、慌てて腕を上げた。その掌に、大ぶりのマンゴーが乗っていた。奉納用の、とんでもなく上等の品だ。私は、驚いて飛び上がった。

「いいの?」

「だって、人間って、飲み食いしないとすぐ死んじゃうんでしょ? だから、餞別」

「……さっきまで、食べちゃうぞーとか言ってたのに?」

「食べる食べる。でも、もっと太って、大きくなってから食べるよ」

 私は苦笑しつつ、先の方を前歯で割って、簡単に皮を剥くと、すぐにかぶりついた。滴る甘い汁を吸う。ああ、彼の仕草が下品だなんて、もう言えなくなちゃったな。

 両肘をついて、ニコニコと笑っている彼の言葉は、どこまでが本気なのかもわからない。でも、別にどちらでもよかった。

 それこそ、今食べられちゃっても、よかった。


「さようなら。もう、行かなきゃ」

「バイバイ、レーヤ。また会える?」

「きっとね」

 この挨拶も、きっと何人もの巫女達と、交わしてきたものなのだろう。おばあちゃんとも、母さんとも。だから私が、特別なわけではないのだろう。

 ……彼のことを、好きになってしまった巫女も、きっと、私だけではないのだろう。


 天蓋の外に出ると、もう、夜の帳が降りていた。ぼんやりとしたまま、涼やかな夜風を浴びる。見上げると、星が幾つも、黒い天上で白く瞬いていた。

 岸の方で、お祭りはまだ続いていた。焚き火の周りには、いくつかの屋台や浮舟が出ていて、そこで沢山の人たちが、思い思いの宴会を楽しんでいるのが見える。しかし、私の姿に気がつくと、突如として歓声と太鼓の音とが、地鳴りのように沸き起こった。

「……大げさだなぁ、もう」

 恥ずかしさに苦笑しつつも、疲れ切ってふぬけのようになった腕を、なんとか持ち上げて、みんなの方に剣先を振ってみせた。星明かりを反射させ、向こうまで光が届いた筈だ。

 ……ふと、その視界に、ひらひらと、透明な触手が踊ったような気がして、思わず背後を振り返った。でも、もちろん、天蓋は閉まったままだ。


 呼吸を整え、数歩、陸に向かって歩き出す。立つのもやっとという有様で、倒れそうなくらいにふらついていたけれど、なんとか、前に進む。

 疲れてはいた。限界だった。けれど、もう私は、震えてなんかいなかった。冷や汗はとうに出し切って、代わりに胸に満ちているのは、今まで抱いたことのなかった喜びと、小さな小さな、けれど私だけの、希望のカケラだった。

 昼間までの私とは、別の私が、橋の上を歩く。堂々と、一歩ずつ。

 眼前に大きく開けた夜空は、抜けるように透き通って見えた。



 終わり

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海月の剣舞 鳥ヰヤキ @toriy_yaki

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